2020年10月19日のM20編成運用離脱をもって、武蔵野線から205系がいなくなりました。信じられない。
別に205オタクってわけではないのですが、子どもの頃からお世話になった電車ではあるので、昔の写真張り付けて言いたいことを言っていこうと思います。
武蔵野線の205系が運用を開始したのは2002年12月のこと。そこまで遠い昔の話ではありません。E231系500番台投入で山手線を追い出された205系が大量に武蔵野線へとやって来ました。
そんなわけで、大半の車両の新製配備は山手電車区なのですが、何本かの編成は別のところからやって来たりしています。写真のM1編成の新製配置は浦和電車区、もともとはスカイブルーの帯を巻いていた編成です。
そんな武蔵野線の205系の魅力といえばバリエーションの豊富さ。晩年に方向幕がLEDに換装された編成(M28~M36)や…、
南武線の205系淘汰の際に武蔵野線へと転属してきた編成(M51・M52)、
武蔵野線生え抜きの通称「メルヘン」(M35・M62~M65)なんてやつもいました。武蔵野線には踏切がないのでスカート(排障器)が取り付けられず、特徴的な外観になっています。
中でもかなり異彩を放っていたのがM35編成。メルヘンと呼ばれる武蔵野線生え抜きの205系は基本的に6M2Tなのですが、このM35編成は色々あってVVVF化改造を受け4M4Tに。晩年は方向幕もLEDとなり、個人的にクセの強さNo.1だと思っています。
この他に、武蔵野線から横浜線に行った編成(M66→H28)ってのもいました。武蔵野線の歴史は首都圏の通勤型電車の転配の歴史でもあるのです。この他にも細かい差異とか色々あるみたいですが、そこらへんはもっと詳しい方がたくさんいらっしゃることですし、沼には踏み込まないことにしておきます。
…、とまあ色々と書いてきましたが、お前は205系に興味あるのかと言われると、正直なところ一切なかったです。乗る機会はめちゃめちゃありましたが、写真を撮ることがあるとすれば貨物か工臨のついでとか、それくらいの存在でした。
ただ、メルヘン顔の205系は割と好きだったので、ちょっとだけ意識して狙っていた時期もあります。大した写真は撮れてないですが…。
出羽公園のひまわりとメルヘン。
こちらはM62編成のOM出場。珍しく編成札つけっぱなしでの出場。
2016年の豊田車両センターまつりではM35編成がゲスト出演したり。メルヘン顔の連中は新製配置が豊田ってこともあっての選定だったのでしょうか。
あと、武蔵野線にやって来る多種多様な車両とのコラボってのは魅力的に思うところがありました。こちらは北府中工臨を牽いてやって来た田端のPFとのコラボ。
メルヘンver.もありました。
そんな武蔵野線の205系に大きな転機が訪れたのが2017年。
武蔵野線向けのE231系が遂に姿を現したのです。山手線にE235系を投入し、追い出されたE231系500番代を中央・総武緩行線に投入し、追い出されたE231系0番代を武蔵野線に投入という構図になりました。
そして2017年9月、武蔵野線向けE231系第1号が秋田総合車両センターから所属先の新習志野へ配給されました。この編成はMU2編成として2017年11月1日から運用を開始しています。
再び追い出される身となった205系。動きがあったのはE231系の運用開始から4ヶ月後のことでした。
2018年3月2日、M24編成が長岡のEF81に牽引されて新津へと向かい、新潟港から船でジャカルタへ。廃車ではなく、海外譲渡という道を辿ることとなりました。
途中から船の出発地が新潟港から千葉港に変更になったりしましたが、最終的に1本の廃車も出すことなく全編成がジャカルタへと向かいました。
譲渡のためにジャカルタへと向かう編成にはジャカルタ行きの特製方向幕が用意され、日本での最後の旅路に花を添えました。初回だけという噂もありましたが、全42回、全て異なるデザインという力の入りっぷりでした。
時は流れて2020年、あれほどいた武蔵野線の205系もとうとう最後の1本となってしまいました。最後に残ったのはM20編成、量産車最古参のクハ204-5・205-5が組み込まれた編成です。
実は北府中工臨のついでに1回だけ撮ったりしていました。これが自分の武蔵野線205系最後の撮影となりました。
「府中本町」の方向幕も、
オレンジ帯と丸目のライトの組み合わせも見納めです。
こんなご時世ということもあって大々的なイベントは行われずに(コロナがなくてもイベントはやらなかったようにも思えますが…)運用離脱となりましたが、武蔵野線の各駅には205系への感謝を込めたポスターが掲出されました。
実際に205系とお仕事をされていた方々のメッセージというのは、グッとくるものがありますね。
さて、何事もなければ武蔵野線205系最後の譲渡配給が新習志野を出た頃だと思います。興味はほとんどなかったとは書きましたが、最もお世話になった車両の1つであることは間違いありません。
長らくの活躍、本当にお疲れ様でした。ジャカルタの地での活躍を祈っています。